「黄金の国ジパング」
マルコポーロがジェノバの牢獄で口述筆記させたという「東方見聞録」に、日本を「黄金の国ジパング」と紹介したのはあまりにもよく知られている。マルコポーロは1271年に元の皇帝の避暑地上都(シャンドウ)に入り1292年まで皇帝に仕えて、この間に「わが国の東には黄金の国ジパングがある。」という話を聞いたという。当時奥州の豪族であった藤原一族は、東大寺の大仏建立最中の天平21年(749)に小田郡から始めて金が産出し、以降、陸前高田の玉山金山の発見などゴールドラッシュが続いたことで豊富な金を得、北宋貿易で莫大な資金を得ていた。この財力があって中尊寺光堂の建立も可能になったわけだが、この話が元の皇帝クビライに伝えられていたのだという。
「佐渡金山」
佐渡で金が取れることは平安時代から知られていたようで、竹取物語にも佐渡で金を掘った話が伝えられているという。戦国時代には上杉氏によって銀山の開発も行われていた。しかし、本格的に金の採掘が始まったのは、慶長6年(1601)に山師渡辺儀平ら3人が相川で「道遊ノ割戸」の大露頭鉱を発見したことに始まっている。
江戸幕府は石見銀山から鉱山技師の大久保長安を招いてここを直轄の金山としたが、その後も次々と良質の鉱脈が発見され、金山開発を命じられた武士や技師、工夫などが送り込まれて、寛保期(1741〜1744)に佐渡の人口は現在をしのぐ93,000人に及んだ。
鉱床は金1:銀20〜30を含む銀黒と呼ばれる鉱床で、東西3,6H・南北3,3H・垂直深度200m以上あった。採掘に当っては水の湧出があり、困難を極めたが水上輪と呼ばれる揚水装置を考案するなどしてこの問題を克服していた。江戸幕府を支えた金の生産量は江戸時代で約41t、明治以降では約37tになるといわれ、坑道の長さは400H以上になった。1896年に三菱合資会社に払い下げられたが、品質低下などの理由で1989年3月に閉山されている。

現在の佐渡金山入り口
銀
不活性の金が砂金のような自然金の状態で存在するのと違って、銀は活性であるため概ね他の金属との合金として存在するので抽出が難しく、最古の銀製品の遺物は紀元前3000年ごろと金製品よりも1000年後れている。出土したのはシュメール人の都市国家ウルの遺跡と、シュメールと交易があったナイル川下流の下エジプトの遺跡からである。当時アナトリアに銀鉱山があり、この鉱石から銀を取り出していたが、精錬技術が未熟のため抽出が難しく金より高価なものとして取り扱われていた。当時のレートで金と銀の価格比は2,5:1であった。紀元前2500年になるとシュメール人が鉱石から銀を抽出する精錬技術を確立して銀の生産量が増大し、金と銀の価格が逆転したという。紀元前10世紀から15世紀にかけての金銀価格比は1:10〜12でほぼ安定していたようだ。
この頃、アンデス文明が発祥した南米のペルー周辺でも銀の生産が始まった。純度の高い銀であったが他地域との交流がないため貴金属としての意識はなかったといわれている。
ギリシャでは紀元前487年アテネ近郊のラウレイオン鉱山が発見され、大量の銀が採れるようになった。紀元前492〜449にかけての40年を超えるペルシャ戦争にアテネが勝利したのはこの潤沢な資金があったからである。この勝利によって陸軍国であったアテネはエーゲ海東岸を手中に収め、強大な海軍力を擁する海上貿易国となった。
地中海交易を支配したローマ帝国では紀元前200年ごろ貴族の間で銀を暮らしに取り入れる風潮が強まり、銀製の食器を愛用するようになった。活性の銀は化学的には安定していて、大気中では加熱しても酸化しないが、大気中の硫化水素と水分の作用で硫化銀を形成して黒く変色する。そのため本来の銀イオンによる滅菌作用に加えて、毒に反応して変色すると考えられて好んで食器に用いられたようだ。紀元前1世紀ごろになると、ヘレニズムの影響を受けたインドでも銀の食器が用いられるようになった。欧米の食器をピカピカに磨く習慣は、変色しやすい銀を食器に用いたことに始まっていると考えられる。
1492年コロンブスがアメリカ大陸を発見すると、植民地政策を推し進めるスペインの関心はアメリカ大陸に向かい、1533年には独自の銀細工をつくっていたインカ帝国に侵攻して我が物にした。スペインはそれから12年経った1945年に膨大な埋蔵量のあるボリビアのポトシ銀山を発見、ここから大量の銀がヨーロッパにもたらされたことによって銀の価格は大暴落し、ヨーロッパにものすごいインフレーションを惹き起こすことになった。穀物価格の暴騰を招いたこのインフレはその後約100年も続き、ヨーロッパが経験した最初の、空前絶後のインフレとなった。
貨幣としての金銀
世界的には羊や穀物、中国や日本を中心に絹などが価値の基準になっていた社会に貨幣が導入されて、商業は飛躍的に発展した。貨幣は発行者の信用を裏づけにして初めて交換価値を持つわけで、貨幣の発行は安定した国家の成立を意味する。 金・銀が貨幣となったのは紀元前のことで、前6世紀にギリシャの都市ラリッサで始めて鋳造されたドラクマ銀貨が最も古いようである。
表にはラリッサ付近の海の精霊で海洋の神ポセイドンの妻とされるニンフが刻まれ、裏にはラリッサの特産であった馬が刻まれている。
共和国時代のローマに貨幣制度が生まれたのは前289年ごろといわれるが、前81年には共和国でデナリウス銀貨が発行されている。初めて金貨が発行されたのはアウグスツス帝時代でアウレウス金貨と呼ばれている。
4世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、通貨の安定を図ってビザンツ帝国で鋳造した「ソドリウス金貨」がある。ビザンツ帝国時代には「ノミス
マ」と呼ばれていたというが、帝国統一の経済的な柱として6世紀のユスティニアヌス1世の時代に編纂された「ローマ法大全」でも金の純度や重量について多くの取り決めがされていた。

ラリッサのドラクマ銀貨
歴代皇帝はこれを遵守したため貨幣に対する信頼性が高く、11世紀に至るまで首都コンスタンティノーブルの旺盛な経済活動を支えていた。余談だが「soldier」はソリドゥスのために戦う者という意味に由来するという。日本では武田信玄統治下の甲州で、黒川金山(旧塩山市・甲州市)、湯の奥金山、中山金山、御座石金山、保金山、などから採掘される金で甲州金貨が鋳造されて、始めて体系化された貨幣制度が生まれ、領内で使われ始めた。

コンスタンティヌス一世を描いたソリドゥス金貨
江戸時代になると幕府によって金貨(小判・分金)銀貨(丁銀・豆板銀)銅貨が発行され、全国に通用する貨幣ができたが、全国的な流通を見るのは寛永年間以降で、金貨を発行する場所を金座、銀貨を発行した場所を銀座と呼んだ。東京の銀座は明治2年、慶長17年(1612)に駿府にあった銀貨の鋳造所が移されたことに由来して名づけられたものである。
このように金を交換価値とする考えは古くから存在したが、金本位制が始めて実施されたのは1816年イギリスの貨幣法でソブリン金貨が1ポンドと定められてからで、その後ヨーロッパ各国が次々に追随し、19世紀末には国際的に金本位制が確立した。
以降1971年8月のニクソンショックで金と米ドルの兌換が停止され、1973年に終焉を迎えるまで金は通貨の基準であった。

慶長小判駿河座
イギリスで金本位制を確立した1817年銘最初のソブリン金貨
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