協会10周年記念講演


去る2月24日の定時総会の後,内田祥哉先生の記念講演がありました.ここにお話の概要を収録致します.全て画像の資料に依ってお話されましたが,紙面の都合上,画像の説明等一部省略,短縮したことをご了解下さい.(編集担当)


伝統的建築から戦後の木造建築の変遷    内田祥哉

 記念講演と言う荷の重い荷物を簡単にお引き受けしたのですが,どういう題が良いかと言う話になって,手持ちのパワーポイントでのプレゼンテーションを利用してお話をすることと致しました.
 今日,私がお話したい事の一つは戦後間もなくの木造建築の状況がどういう環境に置かれていたかと言うことを,恐らく皆さんも充分にはご存知ない点もあろうかと思いますので,お聞きの皆さんの中でも私が最長老に近いわけですから,そのことをお話したいのと,伝統的木造建築と言うものが日本の建築界の中で如何に虐げられてきたというか,疎外され,無視されてきたかと感じてきましたので,その話をしたいと思います.そしてその原因は日本に木材資源がなかった時代に起きたことになっているのですが,実は,日本の木材資源は今やむくむくと肥りだしていて,どのように使うかと言う時代になっている,そのことをご存じない方もいらっしゃるし,今後の木材の利用について御困りの方もいらっしゃるので,私はこう考えるということを最後にお話したいと思って居ります.(以降,画像を使って説明された)
 さて,日本建築と言うのは意外に多様なのですね.このことをよくご存知だけど認識がないという方が多いと思います.私自身も分けてみるとそうなるかと思うぐらい日本建築は多種多様です.先ず,最初にその話をしましょう.
 日本建築の中には社寺建築と言うのがあると言うのはよくご存知だと思います.社寺建築には神社とお寺がありますが,この二つの区別と言うのは私にもよくわかりません.どうして判らないかと言うと,大変よく似ていて,五重塔と言うのは神社には絶対ないけれど,神社にあってお寺にない,お寺にあるけれど神社にないと言うのはそんなに多くはありません.
 三峰神社(秩父)などに行きますと,どうしてこれが神社なのだろうと思うような格好をして居りますし,内部に仏壇を置いてもちっともおかしくない.熊野神社もそうです.お寺の中にはかつて神社として使われていたというのもあります.神社とお寺を建築上,区別するのは難しく,これらはひとまとめにしたほうが良いのかもしれません.
 次にお城があります.城は明らかに社寺建築とは違います.外国の文化財関係の人を連れてきて見せても,明らかに日本建築の一つではあるが,最初に見たお城が大阪城だと,姫路城を見ても鉄筋コンクリート造だと思うらしいのです.それぐらい一般の日本建築とはかけ離れた格好をしていると私は思います.ですから伝統建築といっても社寺建築とお城は区別しなければいけないと思います.
 もう一つ,校倉造りと称しているものがあります.これは唐招提寺の校倉ですけれど,非常に特殊で,日本にしかないものと思って居りますが,歴史の先生は決してそうは言わないようです.しかし,世界中でこの三角形の断面を持つ建物はどこからも発見されていないらしいのです.大抵の外国のものはログハウスといって丸太を積み重ねたものであって,三角の断面を持ったものは中国にも韓国にもないようです.どうして日本で三角形になったのか,これから歴史の先生が研究されるのかもしれません.現在,日本でもログハウスが沢山出来ていますが,校倉造りと言う言葉は残しておかなければいけないと思います.
 次の画像は倉敷の町並みの一部です。前述の四つのものとは全然違う.民家は数奇屋か書院でできている.町家と言うことばもあります.その他に蔵造がありますが,これはむしろお城に近いですね.蔵とお城は仕上げの問題だけではなく,どこか違うのだと思います.これらを一まとめにして話をするわけにはいきません.書院と数奇屋の区別なども大変難しくて,そんなに簡単にはいえません.書院と数奇屋の一番大きい違いは,私の感じでは柱の面だと思います.柱の面皮が残っているかいないか,面が大きくても小さくても面皮が残っているかどうかで区別していいのではないかと思っていますが,正確にはどう区別して良いか判らない.何故区別するかと言うと,大工の仕事上の区別があるほかに,建て主の家に対する考え方に大きな違いがあると思います.
 最近の民家を函館の町並みの例で見ますと,外来文化のものが多く見られます.日本の外来文化は明治になって沢山入ってくるわけですが,函館のように船が入ってくるところには洋風建築が多く見られる.これらは書院のようでもあるし,数奇屋のようでもある.やはり洋風建築と言う名が相応しいのかもしれません.
 戦後になって,モルタル塗と言うのができます.これも単に仕上げの問題と言うだけでなく,それに伴っていろいろ違った事があります.
 このように「日本の木造建築」を一纏めにすることは大変難しい.木造建築がいいとか悪いとか言っても,全部が良いわけでも悪いというわけでもない.そのこと含みながら全体的にお話をします.
 先ず,戦後の復興の話から始めます.私が大学を卒業したのは昭和22年,敗戦後,東京は焼け野原と言う時代に逓信省に就職しました.そこで何ができたかと言うと,木造建築しか出来ない.木造建築に関する限り資源はあったのです.
 殆ど何もないときでしたが,1948年に建設省が発足し,翌1949年には建築局が住宅局になりました.これは非常に残念なことであったと思っています.その後も建設省の人に会う度に,何時の日にか住宅局を建築局に戻して欲しいと言っています.何故かというと,住宅局になったために,建築行政が住宅の中に閉じこもってしまうことになりました.住宅以外のことを何かやろうとすると,学校は文部省,保育所は厚生省,病院は厚生省だということになって,何処からか口が出されてきて,建築として捉える事ができにくくなる.住宅局の業務にはどうしてもすべてに住宅が頭につくことになり,住宅以外のことに口が出せなくなってしまっているのです.例えば,日本住宅木造技術センターは,本当は住宅だけではなくて木造全般に関して何でもやらなくてはならないのですけれど,頭に住宅と言う名がついているために,住宅の中に閉じこもりがちになるのです.他にもいろいろ問題があり,これが建築行政をゆがめていると思っています.
 当時の住宅不足は420万戸だといわれていました.1年の建設量を100万戸程度としますと,4年で解消するわけですが,当時は何時までも解消しない絶望的な数字だったというような記憶があります.しかも住宅に関しては個人の資産だということで,国は援助はするけれど,お金を出してくれなかったので,住宅は全て自力で建ててきたといえます。
 当時は,鉄がない,セメントがないと言った時代で,一番手に入らなかったのは硝子です.硝子は配給で,公の建築にはともかく,個人には非常に手に入りにくいという時代でした.そこで何があったかと言うと,木材が唯一の頼りでした.木材だけは豊富にあったので,木材で家を建てようということになりました.官庁や駐留軍宿舎なども全て木造でした.その構造形式の元になったのは木構造計算基準と言うものでした.これは資材がない戦中に飛行機の格納庫や兵舎を木造で作ろうとした時にできたもので,これを戦後,学校建築用にしたのです.どんなものをつくっていたかと言うと,逓信省ではなかなか美しいものをつくっておりました(画面による例示). 就職しまして,このような木造建築の図面をわき目もふらずに書いていましたから,木造建築に関しては自信を持っていました。何時になったら木造から脱出できるだろうか,と言う時代でした.そのうち3年ぐらい経って,朝鮮戦争が始まり,鉄もコンクリートも使えるようになりました.
 そのころのRC造はどのように作られていたかといいますと,現場で仮枠を作ってコンクリートを打設していた.外国ではこんなことはやっていないと確信を持って言えます.どうしてやらないかと言うと大工さんが居ない.材木がいくらあっても大工さんがいなければ,しかも一回限りの型枠を造る様なぜいたくなことはとても出来ません.ところが日本ではどんな建物でも内地材を使って一回限りの型枠を造っていました.
 これは当時できた赤羽団地の写真です.RC造ですが,全部大工さんが現場で作った木の型枠にコンクリートを流し込んで建てている.どういうことかと言うと,全部,木造でモックアップを造っているということです.その木材の量と言うのはバカにならないし,大工さんの手間も大変なものです.外国では,例えばソ連などでは大型コンクリートパネルを使って建てている.現場でモックアップを作るようなことはしていない.日本は現在でも,アパートだけでなく一般の建築でも同じです.日本でそんなことが出来るのは2000年来培われてきた大工さんの力が残っているからだと思います.大工さんは今も昔も変わりませんが木材は内地材がなくなり,この後,型枠用の合板を輸入せざるをえなくなります.
 戦後間もない1996年にアメリカに行く機会がありまして,ショックリートと言うカーテンウォールのパネルを作るのを見ました.ここでは大工さんが木で型枠を作っているのですが,大工さんの手間が非常に高いので一般の建築には使えず,ミノルヤマサキのような有名建築家のものにしか使えない.それを使った建築は受賞しやすいとさえ言われていたようです.木造で型枠を作るということはとんでもなく贅沢なことだったのです.それが日本では一般的で平凡なものにも使っています.勿論高級なものもありました.前川國男さんの京都会館はRC造現場打ちで,全部型枠を現場で作っていますが,杉又は檜の小幅板を接ぎ合わせて作っています.しかも柱の場合,板を割り付けて四方から見て小幅板が均等になるようにさえしています.
 このようなことはヨーロッパの大工さんには非常識の限りですが,日本では普通にやっています.プレキャストでやるようなものですら,型枠に木目のついたほうが良いという考えもあり,そのほうが安く出来る. このように日本とヨーロッパでは型枠に対する考えが全く違っていた,といえます.
 木造にとって戦後の大きな変革は都市防火の考え方です.その原因は空襲です.実はその前に関東大震災がありますが,私は関東大震災の都市火災は歴史の中でしか知りませんので,実感しているのはやはり空襲の都市火災です.多くの方が亡くなって,広島とどちらが被害が大きいかと言う程のものですから,その印象は非常に強いわけです.もう燃えるような都市は造りたくない,と思うのは当然です。しかし,それがだんだん過激になり,木造は駄目だという話になってゆきます.その頂点に達するのが,「防火・耐風水害の為の木造禁止決議」です.1959年の建築学会の近畿大会で出席者500名の満場一致で採択されます.戦後,戦後、ずっと木構造をやってこられた杉山秀男さんは,この決議さえなければ,と亡くなるまで残念がっておられました.これは誠に過激な決議でしたが,実際に世論はそれほど,木造は駄目だと言う気持ちであったことは事実だと思います.
 この話が都市の話に収まっていればよかったのですが,実は,地方にまで及ぶわけです.その大きな原因は例えば,木造で学校を建てようとすると補助金が出ない,鉄筋コンクリートなら補助金が出るのです.庁舎などもそうです.そこで山間僻地の小さな庁舎まで木造は駄目と言う事になって,木造の使い道がなくなってしまいました.全てがRC造になって,木材の使い道がなくなったかと言うとそれがそうではないと言うところにもう一つの問題があります.どんなにRC造になっても型枠材は全部木です.その量は大変なものでした.その結果,森林資源が枯渇したと私は考えています.このことを歴史の先生を始め,指摘している人はいませんが,私はそうであったと思っています.
 木材が大量に使われて型枠材が不足するようになり,RC造も出来なくなるという危機感が生れ,そこで外材を輸入しようという話になります.住宅以外は全部RC造になってしまい,輸入材を使った合板を利用しなければならないことになって,日本では木造の技術が衰えてゆきました.木材の流通経路も衰退し,大学からは木造の教育が消える.関西以西の大学には木造の研究者が居ないと言う悲惨な状態になってしまいました.そのお陰で,その後,ヨーロッパ等で開発された金物を使った先端的な技術による現代木構造と言うのがありますが,そのような技術からも遅れ,日本の木造の研究は約20年も遅れてしまう事になりました.
 そのころに作ったのが「木造建築研究フォラム」です.当初「日本の伝統的構法の再評価とこれからの木造建築」と言うテーマで学会内に研究会を作り,在来構法の文献の収録から始めました.私が強調したいのは当時,ばらばらでお互いに話をしたこともないと言う状態だった営林署から大工さん,製材から加工,流通,設計,施工と言う人たちをひとまとめにして, 日本のなくなってしまった木造の建築をどうしたらいいかと言う相談を始めようとした事です.第一回は紀伊国屋ホールでやりました.その後,日本各地で研究会を開き,フォラムをやりました.これは大変楽しい行事で,この中にも参加された方も居られるでしょう.2001年までの20年間に39回,年に2回,各地で,しかも非常にローカルな町村の中で実施しました.この中で我々もずいぶん勉強させていただきました.そのうちにNPOと言う制度が出来ましたので,解散して現在の「木の建築フォラム」と言う組織になったわけです.私も会員の一人です.
 ところで,お城だとか神社と言う大径木を使う木造建築はどうなったかと言う事もお話したいと思います.これは建設省の発足の時(1948年)に遡ってお話するのが判り易いと思います.その後,1950年に旧建築基準法が制定されます.ややこしいのはこの直後に出来た文化財保護法でして,社寺建築と言うのは現代科学では力の流れ方がわけのわからないところがあるので,建築基準法に入れないで文化財保護法の方で処理しようと言う考えがあったのではないかと推測しています.その結果,文化財保護法ではすでに建っている物の扱いに限って定める,建築基準法はこれから建つ物についての基準を考えるということになり,建築基準法に依らない社寺建築で構造的に解明できていない新築のものは以降,非合法と言うことになりました.
 それでも社寺建築の新築に対する意欲は根強くありました.しかし,建築基準法で言えば,38条の特例以外ではできなくなった訳で,38条の申請には構造解析をしなければなりません. 今でもそれは難しいのですが,当時はこれに手がつけられないと言う時代でした.それでは戦前はどうして社寺建築が新築されたのかというと,戦前の市街地建築物法のなかの施行令第13条には,許可制で例外を認めるという項目があったのです.ところが,この社寺建築や住宅に関する例外規定が新しい基準法では落ちてしまったのです.その後,伝統的木造建築は辛い道を歩かざるをえないことになりました.
 もう少し詳しくいうと,38条申請のための力学的解析をするには,材料が乾燥材で品質が規格化され,均一に確保されていなくてはならないのですが,医療の方で漢方薬の効果が未だ充分に解明されていないように,日本の木造建築では大工さんの歴史的な経験に依って,将来,乾燥すればこうなるだろうと予想しながら木材を使うわけですから,そういうものは構造計算に乗らない.しかもこのような問題について発言できる人が戦後の専門教育に携わる人の中に残念ながら居なかった.それを伝える職人にも人材が居ない.それは新築がなくなったからですが,大工の志望者も居なくなる,学ぼうとする学生は勿論居ない,と言う状況になりました.しかしながら,伝統的木造社寺建築に対する需要は根強くありまして,実際にはいろいろな形で実現します.
 戦後初期に建った,大規模な伝統構法のものとしては,伊勢神宮の式年遷宮。金閣寺消失後の再建,これは高さの問題,しかも市街地に建つという問題があります.文化財の仕事と思われるかもしれませんが,焼失したので文化財としては抹消されていますから新築です.熱田神宮社殿,これは戦争中に空襲で焼失したものの戦後の復元です.伊勢神宮の遷宮の際の古材を使ったと聞いています.祐徳神社というのは長崎にある大きな神社ですが九州の有力な社寺として建てられました.明治神宮の再建,準防火地域にありますから,建築基準法では難しいと思います.このように大きなものは力がありますから特例もあったかも知れませんが,力がない一般の小さな社寺建築は,途絶えてゆくことになります.
 他方,文化財の修理と言うのが大変に進みまして,伝統的木造技術というのがだんだんわかってきました.伊東忠太先生のころは、様式で時代を区分するだけでしたが,鈴木嘉吉さんの時にはどの技術がどのように,何故発達したかと言うようなことも判ってきました.
 建築基準法に真っ向から挑戦したのが唐招提寺南大門です.行かれた方は,これは飛鳥時代に建ったものと思われるかも知れませんが,飛鳥時代の様式を復元した新築です.この新築の申請に対していろいろ苦労の結果,工作物として許可が下りました.何故かと言うと中に人が住んでいないというのが理由です.そうなりますと,工作物なら社寺建築が建てられるということが判って,これから西岡さんの奈良での活動が始まります.
 そうこうするうちに38条に対応してくるものがでてきます.拾い上げてみますと,薬師寺金堂再建,残念ながらこれはRC造なのです.外側は木造ですからご覧になった方は恐らくRC造だとは思わないでしょう.RC造木造仕上げということで太田博太郎先生は鉄筋の蔵に木造を結わえ付けたら,鉄筋コンクリートは収縮しないが木造は収縮するので隙間だらけになってみっともない格好になるのは決まっているじゃないか,どうしてああいうことをするのかと,かんかんになって怒っていらっしゃった.しかし,あれは鉄筋コンクリートでないと許可が下りないと言う時代だったのだと思います.
 純粋に木造で西の正倉院と言うのがあります.これは最初の構造評定で出来ました. このような伝統的社寺建築が始めて38条で出来たということで記念すべき建物だと思います. 
 これらを年表にしたのが今日,皆さんにお渡ししたものです.まだメモですので,まだ付け加えたいことや修正すべきところもあります.(以降,配布された年表についての説明,省略)
 年表をご覧になると、木の建築フォラムが発足して最近は大分様子が変わってきたと言う事が判ると思います.木の建築賞というのをつくりましたが,受賞作品を見ると木造建築の先端が良く分かると思いますので、それ等ををご紹介して話を終わりにしたいと思います.賞は4つの地域に分かれています.なぜかと言うと地域によって材料が違う,気候が違う,生活習慣も違う,建て方も違う,森林も違うという言うわけで全国一律に賞を出すわけにはゆかないからです.(以降,画像により,受賞七作品:禅長寺本堂(和歌山),新発田城三階櫓(秋田),林野庁森林技術総合研究所(群馬),結いで町を再生(秋田),三川町立東郷小学校(秋田),森を育む家つくり(宮城),山古志村の自立再建住宅支援(新潟)の諸施設についてその意義を説明された.)
 最後に今後の課題は何かと言うと,今や日本の森林資源は有り余る資源となったので,これをどう使うかと言う問題です.それにはかつて日本の森林資源を枯渇させた理由を考えること,それはRC造の型枠だと思います.ですから今後の木材の使い道としては型枠材として使うのが有力な分野であると思います,木材は豊富な国産の資源であり,太陽熱でリサイクルできる材料であることも強調したいと思います.(終)