「 紙」  (2)・・・・・中村正實


紙屋院による紙漉き技術の完成と平安文化
 大宝律令で図書寮の付属機関に紙の調達や製造を職務とする紙屋院(かみやいん)が出来たのは、天平(710〜764)の早い時期のようで、神亀5年(728)には正倉院文書にその名が見えるという。紙屋院は朝廷で用いる公私の紙をつくるため、4〜5人の造紙手(ぞうししゅ)とその下で働く紙子からなり、新しい紙を漉き、使い古した紙を漉き返したうす墨色の宿紙などをつくっていた。天平宝字5年(761)4月21日付けの文書の紙背には「駆使夫一拾三人のうち紙屋五人、可中嶋院使の紙屋六人」というメモが残っているという。当時の山背国(後の山城の国)には紙子が50戸置かれていた。延喜式によると、※1)中男作物として穀皮(楮)1560斤、斐皮(雁皮)1040斤。年貢料雑物として穀皮2260斤、斐皮1000斤、合計5860斤(2344kg)を毎年全国から上納させている。
 この紙屋院で日本独自の流漉き技術が確立したということが出来る。流し漉きは叩解の済んだ繊維を水に入れ、「ネリ」と呼ぶノリウツギやトロロアオイあるいはサネカズラの粘液を溶かしてよく攪拌し、この水を漉き簀に掬って揺すり、最後に残った水を前方に捨て、簀の上に残った繊維の集まりを積み重ねて水分を抜いたものを板に張って乾燥させて紙をつくる。
 「ネリ」のあることで繊維の混じり方が均質になり、沈降が緩やかになって、均一な厚さが得られるとともに、捨て水をすることによって繊維の方向が揃う。溜め漉きの場合は繊維の方向が揃っていないため、重ねると繊維が絡み合ってしまうので、一枚ごとに布を挿まなければならないが、流し漉きではその必要がないうえ、漉簀をゆっくりあげれば厚い紙が漉け、早くあげれば薄い紙が得られるという利点もあった。なお、正倉院文書に残る流し漉きの初例は弘仁2年(811)9月の「勘物使解釈」ということである。

溜漉きの紙・左と流漉きの紙・右の顕微鏡写真-和紙の伝統・町田誠之著・駿々堂より

 

  ノリウツギ     トロロアオイ

 紙屋院は平安遷都に伴い嵯峨野の紙屋川(現・天神川上流)沿いに移され、設備の拡充が図られた。延喜式によれば布紙・穀紙(楮紙)・麻紙・斐紙(雁皮紙)・苦参紙などを合わせて、長さ1尺2寸、幅2尺2寸の紙を毎年2万張、内蔵寮に納めることになっていた。このうち苦参紙は現存するものがなく、実態は分かっていないが、苦参(くじん)は「クララ」といって漢方薬に用いられたという。図書寮と紙屋院が中心となって各国郡に紙漉きの技術者2名を派遣して技術を広めたため、紙漉きは全国に普及して、南北朝時代に紙屋院が廃絶されるが、私有の荘園から紙を上納させることで供給が不足することはなかったようだ。陸奥紙(みちのくがみ)はこの頃人気の高かった紙で、後に檀紙と呼ばれるようになった。
 正倉院文書によると天平9年(737)には美作・出雲・播磨・美濃・越前などが紙の産地として記されているが、宝亀5年(774)の「図書寮解」ではさらに越中・越後・佐渡・丹波・長門・紀伊・近江が増え、平安末期には各地の荘園で紙が漉かれるようになった。こうして紙の供給が増えると、従来絹を張っていた日常の扇にも紙が用いられるようになった。公式の儀礼には桧扇が用いられ私的な改まった席には絹扇、日常は紙を貼った扇が用いられたのである。
 平安時代には文書や絵画の用紙としての需要を補うため素材の種類も多くなって、斐紙(雁皮紙)・穀紙(楮紙)・麻紙・清葉藁紙・朽布紙・橡(くぬぎ)麻紙・竹幕白紙・楡(にれ)麻紙などが見える。紙を染色することも行われて、藍色紙・縹(はなだ)紙・青褐紙・黄紙・浅緑紙・紺紙・赤紙・赤紫紙・など多様な色彩の紙がつくられていた。これらは彩箋と呼ばれ、黄檗(きはだ)で染めた黄紙は紙魚が嫌うため重要書類や経典に用いられ、紫紙は金泥で経典を書く紙として重用された。
そのほかの多彩な紙は継紙にして詠草料紙などにされていた。染料は藍・縹・青が藍、黄色がイネ科の刈安と黄檗、赤はマメ科の蘇芳などで、他の色はこれらを染め合わせてつくった。また、北宋からは具引雲母(きら)紙や稀に蝋箋などが舶載され、唐紙として珍重された。また、いったん漉いた紙に色のついた繊維を漉きかける打雲、飛雲の技法や墨流しなどが考案された。

破り継紙:久米康生氏蔵

 寛平元年(894)に菅原道真の進言によって遣唐使が廃止されると、日本独自の絢爛たる平安文化の華が開くことになった。奈良時代には男性のみが使っていた紙は平安時代に入ると女性も用いるようになる。紙の普及は貴族の間に詩歌・文学を広めた。唐からの輸入がなくなったので、紙の表面に膠に溶いた胡粉を塗り木版に「キラ」と呼ぶ雲母の粉で文様を刷り込んだ和製の「唐紙」や、具引きといって胡粉と膠を混ぜて塗った紙を文様のついた版木の上におき、上から陶片や動物の角などで強くこすって文様の部分に光沢を与え、あたかも蝋で模様をつけたように見せる「蝋箋」もつくられる様になった。
 漢字を用いた男性は主に厚く漉いた楮紙を用いたが、平仮名を用いた女性は薄く漉いた陸奥紙(みちのくがみ)や雁皮紙を好んだ。
 「源氏物語」の浮舟には次のような文があり、紙が日常生活に浸透していたことがよく判る。
 「昼つ方、小さき童、緑の薄様なる包文のおほきやかなるに、小さき髭籠(ふげこ)を小松につけたる、また、すくすくしき立文とりそろへて、奥なく走り参る。」
 包文(つつみぶみ)は多くは雁皮の薄い紙で包んだ手紙で、恋文に多く用いられ、立文(たてぶみ)は懐紙などをたてに折って上下を折り曲げたもので、事務的な手紙などに用いられた。懐紙は主に男性が携帯した現在の紙ナプキン兼手帳になる便利なもので、その上に菓子をとったり、濡れた器の縁を拭くのにも用い、詩想が湧いたときに漢詩を書き付けたり、和歌を書いて好きな女性に送ったりした。推測に過ぎないが平仮名は筆の滑りのよい和紙が生んだということが出来ないだろうか。
 寝殿造りの内部は、塗籠以外に間仕切りがなかったため、殿舎の中を几帳、屏風、壁代、ふすま障子などで仕切って生活した。「室礼」(しつらえ)という言葉はこれらで隔てを設け、帳(とばり)、畳、シトネを置き、厨子、二階棚、衣架けその他の調度を作法にしたがって整えることで、障子はもともと隔ての意味である。つまり「室礼」は宮廷行事の作法にしたがったインテリアデザインの方法で、衣替えをする四月には帳、壁代、几帳などは冬物の練絹から生絹(きずし)に替え、畳も新調した。お産の産室は帳、壁代、几帳、屏風あるいは畳の縁まで白で統一した。こうした宮中の儀式作法を倣うことに公家たちは情熱を傾け、これを「みやぶ」といい「雅」の語源となった。
 几帳や屏風、障子などに始めは絹、麻、葛布、あるいは唐紙などを貼っていた。唐紙を貼ったものは唐紙障子と呼んだが、紙の供給が増えて金や銀の箔押しをした紙が現れると、これを新たに襖紙という名で呼ぶようになった。

※1 中男作物:天平勝宝9年に改制された養老令で18才以上21才以下の男性を中男と称した。