「 紙」  (1)・・・・・中村正實


1.紙漉きの始まり
 紙は中国で生まれ日本で育った材料で、IT技術によって情報が電波で飛び交う今日でも、世界中で国家の成立や文化の発展を担う存在として欠かすことの出来ない材料である。その起源は紀元前180年頃と推定されている。1986年、甘粛省天水市放馬灘(ほうばたん)の前漢時代(前180~50)の墓から、地図のようなものを書いた紙片が発見されたが、叩解度(こうかいど=繊維を叩いて平たくすること)のよい紙だといわれ、放馬灘紙と呼ばれている。
 放馬灘紙が発見される少し前、1957年には陜西省西安市橋(はきょう)からも紀元前140〜87ごろの紙片が発見されたが、繊維束が多く、交織も不ぞろいで叩解度がひくい紙だったといい、これを橋紙と呼んでいる。この頃には中国各地で紙がつくられていたのだろう。材料は衣料に用いた麻の屑などが使われたようだ。書写には適さないので主に器物の包装用に用いられたと考えられている。
 この紙が出来る以前、中国の和帝元年(100)に後漢の許慎が編んだ最初の辞書「説文(せつもん)」に絮紙というものがあり、繭を糸とする過程でできる繊維屑を集めて水中でたたきほぐし、絮(真綿)として用いたが、この作業の後に薄い膜状になって残った屑を乾燥して紙として使ったらしい。ここから糸編に繊維をたたき伸ばすときの音を示す氏を書いて紙という字になった。絮紙は中国でも余り利用されなかったといい、現在復元するにもその製法が不明で詳細は分からない。しかしこれが同じ繊維である麻を漉いて紙にするヒントになった。
 中国の通説では、東漢の和帝に仕えた蔡倫が元興元年(108)に始めて紙をつくったとして紙祖と呼ばれているが、前述のようにこれは事実ではない。蔡倫は湖北省桂陽州出身で工芸に優れた才を示し、宮中の御用品をつくる尚方の長官となって、刀剣をはじめ宮中御用の諸器をつくったが、どれも緻密で精巧であったといわれている。蔡倫が紙祖と呼ばれる理由は、麻のボロ布の屑に加えて楮の樹皮からとった繊維を加えて質のよい紙をつくったことで、和帝がこれを称えて「蔡候紙」と名づけたことに始まっている。「熟紙」という言葉があることから、技術的には繊維の叩解を丁寧に行い、荒い繊維の隙間を埋めるため澱粉や膠を刷毛引きする方法、あるいは澱粉や滑石の粉、石膏や石灰、白亜等を紙料に加えて筆の滑りをよくしたと思われる。
漢字の成立と書写材料の変化
 1954年、西安郊外の半坡の新石器時代の遺跡から出土した彩色陶片に筆で書かれた文字のようなものが見つけられた。文字というには十分でなく、刻劃符号(こっかくふごう)と呼ばれているが、これによって既に筆が出来ていたことが分かる。また、山東省鄒平県丁公村の竜山遺跡からも、前2200年ごろと推定される文字のようなものが刻まれた陶片が出土しているので、前21〜16世紀の夏では文字が成立しつつあったということが出来る。
 殷の時代(前16〜11世紀)に入ると亀の甲や動物の骨に占いや祭祀の記録を刻んだものが大量に出土している。文字に必要な象形・会意(偏と旁がそれぞれ意味を持っていること)・形成を備えており、甲骨文字と呼ばれている。これに続く周の時代((前1122〜256)には封建制が発達し王室と諸侯の間に交わした盟約等を銅器に鋳込んだものが圧倒的に多く出土し、これを「金文」と呼んで篆書体の原型とされている。名文を刻んだ青銅器は7千点近く発見されており、このうち殷・秦・漢のものがおのおの千点、4千点が周代のものといわれている。解読された文字は1800字余り、未解読の文字は1100字余りあるという。
 「説文」には「竹帛に著す、これを書という」とあり、竹簡と帛(はく=白絹)に文字が書かれていたことが分かる。帛は春秋時代(前771〜403)から書写材料として用いられたようだが、絹は同じ重さの金と同じくらい価値があったため、特別の場合を除いて竹簡が用いられた。竹簡は幅12@程度、長さは最も長いもので56B、これに40字程度の文字を記したようだ。孔子(前551〜479)の論語も殆ど竹簡に書写されたと思われる。漢の時代には竹簡の需要が急増して竹が乱伐され、天候の不順もあったようで、竹は概ね失われてしまい木簡(木牘:「もくとく」ともいう)に代わっていった。何冊にもわたる小説などを1巻・2巻と区別するが、「巻」は帛を巻いたものを指し、1冊・2冊の「冊」は竹簡・木簡を束ねたものを指す。
 東周から群雄割拠の春秋戦国時代に入ると各地に様々な書体が生まれたが、前221年に始皇帝が中国を統一すると、始皇帝は文字の統一に着手した。まず、李斯が創案した「小篆」を正式書体とし、続いて篆書の早書き体の隷書を認めた。この文化は前漢に引き継がれることになり、国家組織の維持に大いに貢献した。「説文」には「漢おこって草書あり」と記されているというが、後漢の霊帝(在位168~189)の時代、「草聖」と呼ばれた張芝(ちょうし)と弟の張昶(ちょうよう)の著名な書家が現れ、この頃には草書が完成していたことが分かる。
 漢末期から魏にかけて紙の生産はかなり普及したようで、山東省の佐伯(さはく)は紙の名産地となり、「張芝の筆、韋誕の墨、佐伯の紙」が三絶として賞賛された。また、淅江省淅県曹俄江の上流にある渓(せんけい)では自生する藤の繊維を楮と漉き合わせた、硬く白く丈夫な「藤紙」がつくられていた。
 時代が下がって唐になると、安徽(あんき)省宣州を中心にして、藁を日に曝して漂白したものに少量の檀の繊維を加えた、薄く柔らかく緻密で、平滑度がよく吸湿性に優れた「宣紙」がつくられるようになった。この紙は蝋を塗って書画の模搨(もとう=上に乗せて写すこと)に優れていた。「画仙紙」はここから名前をとったものだという。文化庁が保存する「新撰類林抄」は唐代の宣紙だと推定されているが、簀目は3Bあたり30本以上で、晋代の楼蘭文書の簀目が平均13〜4本だったのに比べて格段に細かくなっている。
 熟紙などの紙を加工する技術は制度によって守られていたようで、中国古代氏研究の基礎となっている「大唐六典」によると、校書郎に熟紙匠八人。門下省弘文館に熟紙匠八人。中省省に熟紙匠六人。秘書省に熟紙匠十人・装匠十人。宗文館に熟紙匠一人・装匠一人が定められていたという。

2.日本への紙漉き技術の導入
 一般には日本書紀の記述をもとに、推古天皇18年(610)に高句麗から渡来した僧曇徴によって日本に紙が伝えられたことになっているが、魏志倭人伝には倭が宗王朝(420~478)に10回も遣使を送っていることから、この頃には紙漉きの技術が伝えられていたと考えることもできる。たとえば日本書紀の欽明天皇30年(569)に田部の丁籍を定めることが記されており、この台帳をはじめ中央の官庁はかなりの紙を必要としたはずである。
 もっとも、中央官庁の保護の下に紙漉きの技術が発展したのは、間違いなく僧曇徴が紙漉き技術を伝えてからで、飛鳥末期から奈良時代にかけて国家の体制を固めるため、律令制度の定着や仏教の普及に欠かせない経典の書写には大量の紙を必要とした。朝鮮仏教の直接的な影響下にあって、当時の大寺院には2千巻規模の一切経が蔵経されていたといい、私寺であっても数百巻の蔵経があったと推定されている。延喜式によると、写経生のノルマは1行に17字書いて、1日およそ3千字と定められていた。ただし、溜め漉きの紙の場合はノルマが軽減されたから、流し漉きによる和紙表面の滑らかさが如何に優れていたかが分かる。
 日本書紀の推古天皇18年(610)には次のように記されている。
「高麗の王が、曇徴と法定を貢上した。曇徴は、五経を知り、またよく彩色および紙墨をつくり、石典磑(みずうす)をつくる。石典磑を造るのはこれに始まる。」
とあり、紙をつくるのが初めてとしていないことで、紙漉きはすでに行われていたことがわかる。
※彩色は絵の具のこと、石典磑は水車を利用した石臼である。
 舒明天皇の11年(639)には百済大寺が建立され、仏教は大和政権の公の信仰となった。日本書紀によると天武天皇元年(673)3月には次のように記されている。
「是の月、書生(ふんやのわらわ)を聚(あつ)めて、初めて一切経を川原寺に写したまふ」
 経文を書写することで功徳があるとされていたが、ここに写経集団が生まれることになった。一切経は現在5千数百巻に及ぶというが、当時でも3千巻近くあったと推定され、それを21部も書写しているので、寿岳文章氏の試算では1102万枚ほどになるといい、これだけでも膨大な量の紙を必要とした。
 大化元年(645)に行われた大化の改新で公地公民制をひき班田収授法を設け、国郡制度をひいて租・庸・調の制度が確立すると、戸籍と租・庸・調を徴収する基礎となる計帳を作成するため、紙の需要は急速に膨らんでいった。戸籍は3部つくられて6年に1度書き換えられ、計帳は毎年書き換えられたのである。
 紙質は楮を主に用いた下級紙・中級紙が多く、稀に麻や雁皮を混ぜたものがあるという。正倉院文書には廃棄された戸籍の背紙が多く利用されている。
 天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇が、亡くなった将兵の菩提を弔い、鎮護国家を願うため、5年8ヶ月かけて陀羅尼経100万巻を刷って木製の塔に収め、大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺・宗福寺の10大寺に納めたが、これだけでも相当の紙量になる。余談だが、この版は木版説と銅版説があり、どちらが正しいか未だ決着がついていないようである。
 もちろん日本でも木簡も紙と併用されたが、削って書き直しが可能な木簡は長期に保存する必要のない文書に用いられ、紙は保存の必要な重要書類に用いられた。