「住宅資材物語 塗 料 (2)」・・・・中村正實

自然系塗料の歴史
● 漆
 塗料として最も古くから使われたのは漆である。漆は中央アジア、中国、朝鮮、日本などに生育する植物で、生漆にはおよそ70%のウルシオール(C12H32O2)と20%の水分、それに漆を固める酵素ラッカーゼを含むゴム質からなっている。ラッカーゼは温度25℃湿度80%でよく反応して硬化する。漆の技術は中国から伝えられたということになっているが、中国で発掘された最古の漆器が浙江省河姆渡遺跡で発見された外朱塗漆椀で、新石器時代の紀元前2500年ごろのものである。「詩経」には周の文王(紀元前1150年ごろ)が楚の丘に宮居をつくり「桐や梓とともに漆を植え、やがてそれを伐って琴や瑟をつくろう」と詠っているという。瑟は長さ2m幅50cmもあり、弦の数は19〜25弦もある琴に似た大型の楽器である。

(鳥浜遺跡出土の櫛)


 ところが、福井県三方町の鳥浜遺跡(紀元前4500年ごろ)からは竹を結わえて朱漆を塗った櫛が発見されており、青森県の三内丸山遺跡(紀元前3500〜2000年)からは朱漆塗りの大皿や櫛が発掘されている。つまり、日本でも早くから漆は塗料として用いられており、その技術を向上させたのが中国からの渡来人ではなかったろうか。飛鳥時代に楠で作られた仏像の中にも漆を塗って彩色したものや、漆で金箔を貼ったものがある。
 文武天皇が大宝2年(702)に定めた大宝律令では、大蔵省に漆部司をおき、正、佑、令史と漆部20人がいた。律令では百姓に漆を育てることを命じ、租庸調の調として諸国の漆産地にも漆を献じることを定めている。
 天平時代になると飛鳥時代のクスノキの仏像に代わって脱乾漆の仏像が現れてくる。一説には聖武天皇の発願した「盧舎那大仏造顕の詔」によって、天平17年(745年)から始まった大仏の鋳造で銅を使い果たしたためだという。そのため漆の需要が急増し、大同2年(807)から三度にわたって全国に漆の栽培を促す令が出された。その後、越前、加賀、越中、越後から漆が産出されるようになって、全国の漆の木の本数を記す「漆帳」も整えられた。大同3年(808)には漆部司が大蔵省から内匠寮(たくみのりょう)に移され、仏師や金箔工とともに漆部の技術の向上が図られている。脱乾漆は古くから中国で夾紵法(きょうちょほう)と呼ばれ、塑像に布を張って漆で固める方法があって、これが日本にも伝えられたようだ。
 醍醐天皇の延喜5年(905)に律令の細則のようなかたちで設けられた延喜式には漆製作の工程についても記されており、生漆は下地用、陽に当てて掻き回し半ば熟した漆を中塗りに、よく熟して透けてきた漆を花塗りに用いるとされていた。塗り方も下塗りは乾かすのに一日、中塗りを乾かすのに一日、さらにもう一度中塗りを重ねて、花塗り(上塗り)にも二日かけるよう記されていて、現在の工程にそのまま当てはまる。つまり、このころ漆の技術は完全に成熟していた。下って、藤原清衡の発願によって天治元年(1124)に完成した中尊寺の金色堂や、その後足利義満によって建てられた京都鹿苑寺の金閣は漆で金箔を貼っているから、この頃には漆が大量につくられていたことが分かる。
 アジアの他の国の漆器を見ると、朝鮮の漆器の特徴は螺鈿に代表される。高句麗時代から小さな菊花紋を整然と並べたものが作られており、李朝に入ると牡丹唐草や葡萄唐草など細い線を使った図柄が多く現れる。ミャンマーでは竹を編んだ素地に漆を塗り、線刻模様に色漆を埋める「キンマ」(蒟醤)と呼ばれるものがあり、桃山時代に舶載されて茶人の好むところとなった。千利休が愛用した茶箱の一つにもキンマがあったという。

(ミャンマーのキンマ)

 漆と同じ種類に熱帯植物のカシューがある。カシューの実は、食用となる核と外側の殻とに間にウルシオールに似たカードールを含んだ黒い液を持ち、これに金属ドライヤー(乾燥促進剤)を加えてカシュー塗料になる。性質が似ていることからウルシと同様の使い方をする。

● 柿渋
 滋賀県蒲生郡日野町大窪の旧家に伝えられる寛平9年(897)に書かれた「日野文書」に次のような記述があるという。
 「保内之郷、柿あり。大きさ桐子の如し。名づけて猿次郎柿という。コノ渋を取りて杉・檜の炭と合わせ、以って彼の円器の生地に塗る。砥を以ってこれを磨く。またこれに漆を塗り、飯の器となし、ために自らこれを御器と称す。是れ本朝塗師のはじめなり」
(「柿渋」今井敬潤著・法政大学出版局)つまり、漆の渋下地としてこの頃に柿渋が使われ始めたのだろう。
 渋柿の果汁を搾って発酵させた後、数年熟成してできる柿渋の主成分は、カキタンニンでフェノール性のOH基を有する茶褐色の液である。加水分解を受けず、乾燥の過程で酸化重合して不溶性の強い皮膜を形成するので、防腐・防蟻や干割れ防止の目的で少なくとも江戸時代には建築用塗料として用いられていた。

(渋塗り「新撰百工図解」より)

 「新撰百工図解」(1898)には「荷擔桶に渋を入 灰汁と合わせかつき歩行 板塀したみなとを一坪につき何分と与えを定めぬることなり この墨塗り……近頃は(江戸中に)三四百人にもなりしよし也」
とある。鳥取から富山にかけての日本海側では柱や土台に最近まで柿渋が塗られていた。柿渋は2〜3%の酢酸、プロピオン酸、酪酸、バレリアン酸などの有機酸を含むため、独特の強い臭気がある。臭気が飛ぶまでに1週間は掛かるので、リフォームなどで室内に採用する場合はこの時間を見ておかないと引き渡せない。
 最近の自然素材ブームで古来のリンシードオイル・チークオイル・桐油などにドライヤーを加えて乾燥時間を早くした浸透性塗料、あるいは卵黄を用いたフレスコ絵の具を改良したもの、柿渋などが建築用塗料として復活し、米糠蝋・蜜蝋などを主材料とした塗料保護材のワックスが見直されてきた。いずれも永い歴史を通じて人体への影響などが確かめられた材料なので安心して採用することができる。ただし、オレンジトラール(オレンジオイル)を使用したものにはアレルギー反応を起こす人がいるので注意しなければならない。