「住宅資材物語」 織 物(1) ・・・・ 中村正實 

 欧米の住まいのインテリアのエレメントとして、織物は欠かせないものになっている。一口に欧米の建築は組石造だというが、建築材料をさすのなら正しいとしても、人はそれだけでは住めなかった。厳しい気候風土と硬く冷たい組石造の建物に暮らすには、どうしても織物のたすけをかりる必要があった。その意味で住まいに最初に用いられた織物がタピストリーだといえる。現在、壁面装飾の代表的存在になっているタピストリーの語源は、ギリシャ語のタピ(絨毯)から変化した言葉タピセ(絨毯で覆う)という言葉がフランス語のタピスリーになったもので、もともとはドアや窓の隙間を覆って寒気や砂の侵入を防ぐために用いた厚い布をこう呼んだ。したがって欧米の住宅をくらしの視点で見れば、組石と布の住まいということができる。
また、タピストリーは寒さを防ぐため床に敷き、包まって寝る寝具や寄りかかるクッションとしても用いられた。防寒防湿効果があり丸めて持って歩ける多目的な住宅備品としてこれ以上便利なものはなかっただろう。ギリシャ神話には女神アテーナーとアラクネーがタピストリーを織ることを競ったとあるそうで、太古のギリシャ人もタピストリーを愛用していたことがわかる。
 現在のイラン周辺で興ったアケメネス朝ペルシャで紀元前512年から425年にかけて建設された王国の都ペルセポリスには、西アジアの国々から貢物を献上する朝献図にタピストリーを運ぶ従者の姿が描かれている。
 現存する最古のタピストリーは、南シベリアのアルタイ山中からロシアの考古学者セルゲイ・ルデンコによって、アルタイ初期遊牧民族のバジルク古墳群(前5~4世紀)にあるマッサゲタイ俗の首長の墓と思われる場所から発見された。凍土に覆われた地中4メートルに埋もれていたため、損傷も少なくよい状態で出土している。約2メートル四方のこのカーペットはバジルクカーペットと呼ばれ、現在エルミタージュ美術館に収蔵されている。
 紀元前3000年ごろ統合されたナイル川の流域は、約30の王朝が交替しながら2600年にわたって栄え、ギリシャ・ローマ・ササン朝ペルシャの文化の影響を受けたが、エジプトの初期キリスト教徒であったコプト人たちは、コプト織と呼ばれる太い糸で織った平織りのタピストリーを作っていた。最盛期は5~7世紀で、亜麻の経糸にウールを紫貝の染料で染めた赤紫や黒ずんだ茶色の糸で、ギリシャ神話に題材をとった裸の人物や舞踏図などを描いた文様を織っている。
 ヨーロッパでも8~12世紀に西ヨーロッパ、フランスとドイツのライン川西部地域にタピストリーの工房があった事が文献に残っている。盛んになったきっかけは、12世紀から始まった十字軍の遠征で兵士たちが大量のコプト織を持ち帰ったことだといわれている。現存するヨーロッパ最古のタピストリーはドイツ、ケルンの聖ゲレオン教会に掛けられていたとされるもので、11世紀にケルンの工房で製作されたと推測されている。現在は三つに切り分けられて、ニュールンベルグ国立博物館、イギリスのV&A美術館、フランスのリヨン織物美術館に収蔵されている。
 13世紀後半から各地に大領主が現れると、教会や王侯貴族などがパトロンとなり、ヨーロッパの歴史などをモティーフにしたさまざまな図柄のタピストリーが織られるようになった。14世紀からは旧約・新約聖書、古代神話、騎士物語、英雄伝、宮廷ロマン、あるいは日常生活の情景を題材にしたものも現れ、一つの物語をいくつかのテーマに分けて連作することも行われるようになって、タピストリーは明らかに窓やドアの隙間風を防ぐ覆いとしての役割を終えて、壁装飾の主役となった。当然、この頃からドアや窓を覆うカーテンが現れるようになる。
 最も人気のあるペルシャ絨毯は、1502年に興ったペルシャ人のサファヴィー朝の時代に、2代目のタフマースプ1世、5代目のシャーアッパース1世などがデザイナーと優れた織手を集めて製作に当らせたことで基礎が固まったといわれている。
 壁に布が貼られるようになったのは17世紀の終わりごろのフランスで、1688年にジャン・パピオン(Jean Papillon)が始めて布地に木版で花柄を印刷して壁面を装飾することを考えた。この花柄のデザインが壁面に連続的に繰り返す手法が、装飾芸術家たちにも認められてその後のフランスには布壁紙の全盛時代が長く続き、パピオンは壁紙に父と呼ばれるようになった。
● 羊 毛
 布がいつごろから織られていたかというのは、腐食しやすい繊維製品の宿命で出土品が少なくかなり難しいが、紡錘車が出土することで僅かに推測することができる。
 文献によると最も古い繊維は羊毛と麻で、ともにBC5000年ごろには織られていたらしい。
 羊毛はBC7000年ごろメソポタミアで人類最古の組織産業として牧羊が始まり、始めはその肉を食し、毛皮を防寒用として用いていたが、やがて羊毛を織ることを覚えたのだろう。BC1728年ごろバビロリニアを統一したバビロン第一王朝6代のハンムラピが定めたハンムラピ法典では、トウモロコシ、植物油とともに羊毛を3大特産物のひとつとしている。ヨーロッパへの伝播はメソポタミアからドナウ川を遡ってドイツへ(BC4200)→スェーデン(BC4000)→北欧・イングランド(BC3000)というルート(M・Lライダー説)と、もうひとつメソポタミア→ギリシャ→イベリア半島(地中海コースタル・ルート)がある。

 ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣をまとい、女性はチュガという下着の上に四角い布を巻いていた。このローマで羊の改良が進められタレンティーネという改良品種が開発された。この羊はBC50年ごろスペインのローマ植民地でさらに改良が加えられ、細い糸のつくれる「スペイン・メリノ種」が誕生した。1492年イザベル女王時代にスペイン王国の復興がなると、メリノ種は王国の所有となり、その莫大な利益がコロンブスの海外派遣に始まった世界貿易や植民地の拡大を支えた。
 古来羊は重要な財産で、英語のCapital(資本)という単語は羊など家畜の頭数を示すラテン語のCapitaleから来ている。羊の群れを守る牧人は夜になると木に寄りかかって休んだ。この時も焚き火で暖を取ることを禁止され、貴重な羊を狼から守り、病気をすれば薬草を使って治し、冬になって羊を牧舎に戻すまで牧草地を求めて移動した。その厳しい生活態度から霊能力があるとされ、古代においてはキリスト自ら「私は良き牧者なり。」といい、キリスト教の聖職者も自ら牧人と称して牧杖をその聖職の象徴としていた。中国では牧場の管理をする責任者を牧師と呼び、これがキリスト教プロテスタント教会の複数をまとめる重要な祭司の呼び名となった。
 日本に羊毛が定着するのは様々な曲折を経て、明治政府が軍服の着用を定め、明治4年(1871)9月4日付で「服装ヲ改ムルノ詔勅」を発して、明治天皇自ら洋服を着用するようになってからである。以来、明治天皇の和服姿は見られなくなった。
 明治4年の暮れアメリカからヨーロッパへ世界の主要国を歴訪した岩倉使節団は約70人を従えていたが、木戸孝光、伊藤博文らと同行した大久保利通はこの旅の中で毛織物国産化の方策を固めていた。政商大蔵喜八郎も国産化を事業化しようとしていたが、ヨーロッパに渡りパリで喜八郎と会談した大久保は「どうしてもやり遂げねばならぬ仕事だが、調べれば調べるほど難しい。君のような先覚者が着手して万一失敗するとあと誰も手を出さなくなる。それが困る。」といって、一旦政府が国費をかけてこの仕事に当たり、成功したら君にまかせると約束して、製絨を木戸孝光が推薦する井上省三に任せた。

 木戸孝光は井上の才能に着目してドイツの兵学を学ぶことを奨めた。ところが井上は、ベルリンで新興国にとって最も重要な課題は軍事でなく、産業を興して国民生活を向上させることだと考えるようになり、軍事の研究を放棄し、つてを求めてザガン市のラシャ織物工場に職工として入りこんでしまう。木戸は困ったが井上が頑として意志を曲げないので、この転進を許したといういきさつがあった。
 日本の牧羊の始まりは文化8年(1781)長崎奉行所を介して中国から数十頭の羊を買い入れ幕府薬草園(現・東大付属植物園)に綿羊屋敷を設けて飼育。綿羊の増殖に成功して一時は約300頭を飼育し、年に2回毛を刈って羅紗の製造を試みたが、文政7年火災を起こして200頭が焼死し、残った羊を函館奉行が引き取った。これが綿羊の増殖に成功した最初の例で、雨の多い日本では湿った場所に長く羊を飼っておくと、爪が腐る羊蹄病にかかってうまく育たなかった。
 その後、1875年(明治8年)に大久保利通はイギリス人ジョンソンの勧めで羊3000頭を輸入し大正7年官営の下総牧羊場(三里塚牧場)をはじめ全国5ヶ所に種羊場をつくり、北海道の滝川と月寒でも育てたのが北海道で本格的に羊を育成したはじめである。
 明治12年(1879)9月27日、政府の力によってウールを織る千住製絨所が設立され開所式が行われた。この開設に努めた大久保利通は開所の前年刺客の手にかかって48歳の生涯を閉じ、井上を推薦した木戸孝光は2年前に45歳の若さで病に倒れていた。明治14年(1881)農商務省が創設されると、製絨所は同省の所管となった。その後、明治16年12月29日払暁に起こった火災で製絨所は主要設備をほとんど消失し、この復興に超人的努力を払った井上は明治19年病に倒れて帰らぬ人となった。明治21年7月陸軍省所管となった製絨所は第2次世界大戦末期に空襲にあって廃墟となってしまった。

ペルセポリスのレリーフ

バジルクカーペット

コプト織り
ドイツ織物博物館収蔵