「若かったあの頃」 ・・・・・ 安藤純二
| こんな題で原稿依頼がくるなんて考えても見ませんでした。 もともと記憶力の無い、作文能力の無い私に原稿依頼自体が間違っていると思っていますが う〜ん 無い能力を振り絞って書いてみようと思います。 ここで はたと 仕事したこと「あったかな・・・」(笑) 私がまだ20代の頃{30年前の、話です}松本市の隣にある波田町に長期出張に行っていました。 波田町には鉄骨工場大手の宮地鉄工所が在りそこで鉄骨溶接部の超音波探傷検査を受け持っていました。 朝も早くから鉄骨と格闘して1日400箇所から500箇所の検査を行って夕方5時には耳の付け根が痛くなった事を覚えています。 超音波探傷検査は集中力が勝負で通常の受け入れ検査では100箇所前後が適正な検査が出来る限界量だと言われていますが若かった事と並外れた集中力で・・・(笑) その当時は社内検査専門で、その後の受け入れ検査で無事に通過するかが腕の見せ所でした。幸いに1箇所も不合格と言われたことがないのが自慢です。まともの検査をしていれば当たり前の話ですが。ただラッキーだっただけかも(笑) 冬は雪の中に埋もれそうになりながら検査をし、接触媒質であるグリセリンが凍ってシャリシャリ音をたてながら、夏は頭から水をかぶって う〜ん いつまでこの仕事をしていないといけないんだ と 泣いていました。 5時に仕事を終えてその後はその当時流行したテレビゲームのブロック崩しに熱中、これも集中力のいる遊びです。仕事で集中力を使い果たしても遊びの集中力は別物です。(笑) 休みの日や夜は宮地鉄工所の女の子及びおじさんと食べ歩きをしたように覚えがあります。 松本で餃子、安曇野で蕎麦、美味しかった思い出と共に・・・ そう言えば今我が家に居る連れ合いさんはその時の食べ歩き仲間だったような気がしています。最近物忘れが酷くなって確かではありませんが(笑) |
「業務渡航の周辺」・・・・・伊藤誠三
| 業務で見知らぬ土地に行くというのは緊張の多いものだ.只の観光なら好奇心だけで済むが,業務となると,仕事の手順,現地での色んなやりくりに不安が付きまとう.それでも今まで10年余の海外滞在を何とか無事に過ごしてきた.年が経ってみると,業務自体のことよりも土地の事,人の事が強く心に残っているのが分かる. 以下はサーツ本誌5号に少し書いたODAのケニア医療訓練学校増改築工事のときの事だが,この業務には設計監理のみならず,医療教育器材の支給が含まれていた.工事のあるナイロビ本校のほか,各地の医療訓練学校に教育器材を配り,受け入れ校の器材活用,保管状況の確認をするのである.やや危険と思われる地方にも足を伸ばす事になったが,元英国の植民地だった残り香か,打ち合わせ中,10時過ぎになると必ず,少し甘めのミルクティとビスケットのティー・ブレイクになるのである.窓の外をマサイ族の放牧の群れが通り過ぎるのを眺めながら,この文化の交錯に特に違和感は感じなかった.親しくなったホテルのボーイには「ミスターイトウは東京に何ヘクタールの土地を持っているか」と聞かれ,「土地はない」と答えると「それではどうして食べ物を得るのか」と憐れまれたりした.価値観が違うのであろう.我々はお金がないとたちまち飢えてしまうが,彼らは食うには困らぬのである. 巡回の途次には河馬の群れのいる河のそばを通り,幾万ものフラミンゴが湖面を覆うそばを通ったりした.少し回り道をすると多くの野生動物に出くわした. 業務終了で帰国のとき,完了送別会で現地の代表がことわざを使って挨拶してくれた. Milima haikutani lakini binadamu hukutana (山と山は出会うことはできないけれど,人と人は出会うことができる.) そう,人と人は出会うことができるのだ.2年後,彼は公務で来日し,再会する事ができた. |